昭和四十三年一月六日 朝の御理解
いよいよ今日から、暦の上では寒の入りでございます。その寒入りを期して、全教一斉にどこの広前でも寒修業が行なわれます。ここの広前でも、遅蒔きながら寒修業が行なわれます。椛目から合楽にかけて、全教一斉に寒中修業があっておりました事は知っておりましたけれども、私の気持ちとしては、わざわざ寒中だけしなくても一年中が修業だからとゆう気持ちでしたが、本部より達しを受けて、改めてさして頂くとゆう事になったら、この寒中修業の尊さとゆうのを感ずる。私も、だから、平常通りではいけないと思いまして、今朝は何時もより三十分早く起きさせて頂きました。一番に御広前に来るつもりで出て参りましたら、誰かが、ここで御祈念をしております。よく見ますと秋永先生です。昨夜壮年部会でしたので帰られる時は、もう一時でございました。そして、ゆうならば、ここに寒修業で集まっておられる皆さんの中では一番遠い所から参って来ておられる訳なんです。しかも昨夜は、ここで一時でございましたから、おそらく帰られて休まれる暇はなかったろうと思う。本当に一眠りされただけだろうと思います。そして私が出てくる時には御祈念があっておった。してみると皆さん、これは出来るとか出来ないとかじゃないですねえ。問題は、やる気があれば出来るとゆう事です。ただやる気がないのが、だらっとしているのである。ちぢこまっているのであるとゆう事が分かる。
そこで私は思いました。ここで手本を示される人達がある。遠いからとか早いからとか言い訳にならないとゆう事になります。そうゆう意気込みの中に、寒修業一ヵ月間終えられた後にです、その寒修業がです、これは一月二月と期限を切ってするものではないとゆう体験を頂かれれば、なお有難い。自分にもこうゆう力があるのだと発見する。
昔、芸子さん達が、寒修業を致しました。寒声をとるのです。毎日毎日歌わなければ??ないのに声がかすれて出ない。これではお客さんに対して??です。芸で立つとゆう人が、それで??????です。それで寒中を期してです、片の瀬の瀬で、昔あそこには料亭がずらっと並んでいました。あそこに芸子さん達がござを弾いて、並んで、もう、それこそ血の出るような声を出して、歌の練習に励んだのを、私は知っております。不思議なんですねえ、もうこれ以上は出ないとゆう声がです、その声の、もういっちょう向こうから出てくるようになる。それは、もうかすれた声でもなければ、じゃら声でもない。それこそ、いくら歌うても歌うても、つきない声が出てくるのです。それを寒声をとると申します。寒声を取って、そうゆう修業をする。自分には、とてもそげなこつは出来ん。もうとてもそげなこつは、あたしどんには出けんと言うておった人達がです、例えば何日間か、一ヵ月なら一ヵ月実行出来る時にです、これはやろうと思えば、誰でも出来ん事はないなあ。そして全く新しい体験、今迄の自分にはなかったと思う力がです、そこからしかも尽きる事のない力がです、限りなく出されてくるようなおかげを頂いていく事が、寒修業のねらいと思いますねえ。寒さ、暑さはものともせんとゆう元気な心を養う事です。けれども、その元気な心を養うために修業させて頂いておったら、これだけ腕が上達した。これだけ今迄感じなかったところの、どっから湧いてくるやら分からん。今迄感じなかったところの、そうゆうものに触れる事が、いよいよの願いなのです。
昨夜も、壮年部会で様々な体験が発表されていましたけれども、最後に結局は、有難うならして頂く事ですからねえとゆう事でした。もう結局は、有難うならしてもらう為に、信心修業さして頂くのですから。そこで私は、思うのですけれども、その寒修業とゆうのがです、この朝のひと時に、朝早起きをして、御参りをさして頂いて、心行く迄の御祈念をさして頂くとゆう、この事だけが、修業じゃあないはずです。これからが修業なんです。これから、又布団にもぐり込んでしもうたら、おしまいです。
私共、少年時代、七月の七夕さんの時、短冊を書いたりします。普通の井戸の水ではいけない。朝早く起きて、朝露を踏んで、私共では、芋の葉にたまった水晶の玉のような露がおりております。それを皿を持って行ってから、芋の葉の露をとってから習字の稽古を致しました。まあ言うなら、皆さんが、こうして朝の御祈念にお参りになったとゆう事は、朝露を取りに来られたようなもんです。ですから、その朝露をもってです、墨をする。いわゆる苦労をする。これをもって稽古をする。今日一日、どのような稽古をするやら、苦労するやら分からんのですけれども、朝のそうした修業をさして頂いて、朝の修業が、その日一日をささえてくれるような稽古にならして頂いて、言わば寒中の朝参り修業の値打ちがあると思うのです。
朝露で墨をする、修業をする、その事を通して信心を、いよいよ分からして頂こう。しかも自由自在にひきこなせる、腕を上げよう、力を受けようとゆうのである。力を受けないけませんよ。???が、もう本当に、???信心でゆう力とゆうのは形には見せ???ども、自分が感じるのです。力がついていきよる時には、???不思議なような力を心の中に、もりもりと感じます。それ???徳になるのです。
ですからその修業によって、おかげは受けるとゆう事よりも、修業によって力を受けなければいかんのです。その朝参りによって、朝露を頂いて?ようなもんですから、その朝露をもって力を受ける修業をさして頂かねばならない。そして起きてくる様々な問題、ゆうなら例えば、私なら、家内やら子供やら私の信心について来ない。家内がこぎゃあん、あってくれるといいけれども、子供がこうあってくれるといいけれどもと、まあ思いますけれども、それは未練です。今朝私は、その事を頂きました。そうゆう心は未練だ。だから、そうゆう未練は打ち切って、問題は、私だけが助かりゃいいのだ。私だけが、いよいよ助かった、いよいよ力を頂く時に、皆がついて来る。
家内が信心すりゃいいけれども、商売が繁盛すりゃあいいけれどもと思うのが当たり前のようだけれども、さあ商売が繁盛すりゃあいいばってん、いいばってん、ばっかりではならんのです。主人なら主人、亭主なら亭主が、信心にさえなりゃあ、繁盛すりゃよかばってんと思わんでも、祈らんでも繁盛するようになってるんです。そうゆう思いは未練だと神様はおっしゃる。そうゆう未練を打ち切ってです、本当の力を頂く、本当のおかげを頂こうとゆう信心に焦点をおいて、お互いが信心を進めていかなければなりません。寒中修業第一日に思わして頂きます事、だた今皆様に聞いて頂きましたような、朝露を求めての寒修業、朝参りが、その日一日を支えてくれる修業になる時、それが力にならんはずがない。子供の分も、家内の分も、自分が持たして頂こうとゆう事なんです。そうゆう力を、お互いが頂かしてもろうて、この修業が今迄銘々が?かつて感じた事のない、今迄こうゆうものが、自分の内容にあると感じられなかったような、素晴らしいものがです、出来る程の修業にならして頂いて、いよいよ修業の有難さ、修業がどうでも必要であるとゆう事をです、皆さんが体験されたら有難い。寒中修業の機会にです、そうゆう改まった修業をさしてもろうて、新たな信心を体得していきたいと思う。どうぞ。